2012年10月17日水曜日

死に対するあれこれ

今朝、NHKでちょこっと周防監督のインタビューをやっていましたね〜。月末公開の映画(終の信託)の宣伝を兼ねてる感じ? と思ったけど、この映画、個人的にはちょっと興味があったりもします。あおり文句がすごいですもんね、『医療か? 殺人か?』

話は変わりますが、最近、私が読んだ本も似たようなジャンルの本でした。


こちらの本の帯には赤文字の大きなフォントで『「命を延ばす」だけが正しいことではない。』と書かれています。
「平穏死」という言葉はこの本を読んで初めて知りましたが、読んでいて、確かにそうだよな〜・・・、と思う部分が多々ありました。

ただ自分の数少ない体験上からも、死に行く人と残される人では同じシーンでも思いは異なるのではないかという事も思ったりもします。
個人的には医療に介入されることなく自然に死にたいと思いますが、残される家族としての立場になったらどんな手段を使ってでも少しでも長く生かして欲しい、と思う可能性は高いんですよね(実際、思ったことは多々あります)。

ちなみに長い闘病生活の末夫を見送った私の母は、色々と思うところがあったようで父の死後暫くしてから尊厳死協会に入りました。
尊厳死協会に入った母はその報告と共に「意思の疎通が出来なくなったら無駄な延命は止めて頂戴」と私に言ってきましたが、「実際そんな場面に遭遇されちゃったとしたら、いくらホメオパシーを学んできたとはいえ、無駄な延命であったとしてもやって欲しい、と思っちゃう可能性は高い気がするから約束は出来ないし、したくない」と答えて大ひんしゅくを買いました(苦笑)

なんとなく意思の疎通が出来なくなった時点で、医療の延命をするか否かという決定権は本人ではなく残される側に移っちゃうような気もするんですよね(事前に医療側に猛烈にアピールしていれば話は別かとは思いますが、突発的にそういう事態に陥った場合には、いくら尊厳死協会に入っていて家族にそれを伝えていたとしても、きちんと家族が医療関係者にその意思を伝えてくれるかどうかと言うのは結構難しいとも思っていますし、伝える間もなく勝手に延命措置をされちゃう可能性もありますし、もしそうでなくとも残される側のエゴとかも出てきちゃうとも思いますので、ホント難しい問題なんですよねぇ・・・)。

長年刷り込まれちゃっている『死=敗北』という図式もありますし・・・。
実はそうではナイ、という認識ってなかなか出来ないから難しいですよね。

映画や本をきっかけに、自分の死に際に対する認識を改めて考えて、可能であれば近しい人たちと健康なうちに語り合い相互理解をすることも必要かと思います。
ただ、その手の話が苦手な人も多いので、そんな話をしたら「辛気臭い話は嫌だ〜っ!!!」といきなり頭ごなしに話をすること自体を拒否される可能性もありますが・・・(この前、ホメオパシーとは無関係の友人と話しているときに、何かの流れで臓器移植かなんかの話になったのですが、そのときに自分の死生観とかをちょこっと話したときも似たようなことを言われました)。
とはいえ、死というのは生きとし生けるもの全ての将来に必ず訪れるものでもあるのですから、やっぱり目をそらすことなくシッカリと向き合ってみることは悪いことではないし、必要なことではないかとも思っています。